よく知られたエチオピアの童話に『山の上の火』があります。若者アルハは金持ちアブトムの召使になりますが、もし冷たい風の吹きすさぶスルタ山の頂きに一晩中立つことができたら、家と牛とヤギつきで40ヘクタールの畑を与えるというのです。アルハは危険も顧みずカケにいどみます。「目をつぶったらあかん。目をつぶったらおまえはくらやみにつつまれてしまうからの。わしがもやす火をみつめながら、あったかい火のことを考えるのじゃ」とはげまされ、谷をへだてたはんたい側で燃やすものしりじいさんの火を見つめて耐え忍び、カケに勝ちました。約束を反古にしたいアブトムとは一悶着あるのですが、ものしりじいさんのおかげでついに金持ちから約束のものをかちとります。
アラビカ・コーヒーは悠久の大地アフリカ・エチオピアに誕生し、紅海の対岸、南アラビア・イエメンでその飲用文化が花開き、世界へと広まりました。そのエチオピア・コーヒーが占める割合は世界のわずか平均3%にすぎません、が、エチオピアにおいて貿易輸出量の4割以上はコーヒーが占めています。10/11年度の世界のコーヒー生産は、2010年度のエチオピア生産量は7‚450千袋(44‚7千トン)内輸出量3‚324千袋。
農業国としての自立をはかろうとするエチオピアにとってコーヒーの産業は死活問題なのです。今なお貧しく困難をきわめるエチオピアの人々ですが、ものしりじいさんならぬ日本の愛飲家にエチオピアコーヒーへのあたたかい火があることを私は信じて疑いません。この思いやりこそがエチオピアコーヒーの将来にむけての支えなのです。それは丁度、焙煎の火の当て方である「強火の遠火」に似ています。
私は39年前(1972年)から5年間、吉祥寺にあった珈琲店「もか」で標交紀師から珈琲を学びました。一言で言えば上質な品格ある苦味を追求した師でした。マスターが口癖にいっていたのは、仕事にはメリハリをつけろ、直下に学べ、仕事は盗むものだ、でした。
そしていいものには品格があるとも言っていました。仕事にも自分にも厳しい方でしたから、敬愛する襟立博保先生から直接焙煎を指導してもらうことはなかったようですが、しかし煙突を触りその温度を推し量って盗んだそうです。そんな会話の中で諳に私に職人の勉強法を教えてくれていたわけです。マンデリンが上手に焙煎できたら一流だとも言っていましたネ。マンデリンはほかの豆に比べ一番深く煎って持ち味を発揮します。格たるその苦みは音楽で言えば通奏低音と言ってもいいでしょう。ブレンドコーヒーでは裏に隠れて決して軽やかなメロディーを奏でませんが、その重要さは音楽マニアに限らずいろいろの分野で通じるはずです。
また当時知る人ぞ知る北大路魯山人(春夏秋冬料理王国の著者)の存在を教えてくれたのもマスターでしたが、私は”マスターこそ魯山人を珈琲で実践しているんだ”と思ったことがたびたびでした。
そんなマスターでしたから、勿論私にも焙煎を教えてくれませんでした。が、それも「強火の遠火」に似た。私への教えだったに違いありません。
私はその後福岡に帰り、モカをテーマに珈琲の真実を求めこの20数年間エチオピア、イエメンの視察を続けてきました。天から降る雪の結晶が決して同じ形にならないように、ヒトはだれもが違う個性を持っています。私は珈琲の僕として、モカ・コーヒーについて研究しているわけです。
この35年で学んだことは「手の中にこそ真実がある」「小さいほど感動を生むことができる」でした。それにはネルドリップで「滴一滴」とお湯を落とすように…
一つ一つのことを一期一会と大切に向き合うということです。J.S.バッハが神にも祈る思いで音符をおいたように、モノゴトに精進するという条件がつきます。こんな私の独断の体験談ですが、こうやってここで皆さんにお話できる機会を与えられたこと、強く遠くから私を支えて下さった方、エチオピア・コーヒー輸出業者モプラコ社長、故ヤン二さんに感謝せずにはおられません。
エチオピアで生産地に同行し、土壌の大切さを教えてくれた方です。珈琲の真実を求めて40年、突き詰めると生産地の「気候風土」に往き着きますが、特に「土壌」の持っている天与のミネラルが香味を決定づけていることに気がつきます。
火山性の黒土にミネラルがバランスよく含まれていると「甘く」感じるものなのです。私はまずその土を口に含んでカムことをやってきました。表面を被う腐植土や家畜の糞も含め生産地それぞれに土の味は異なるものです。その中でもエチオピア・ハラール地方の土は特に甘く豊な風味があり秀逸でした。このミネラルこそが香味を決定づけている!!と結論を下した次第です。
料理はよく材料が7割、調理が3割といいますが、珈琲も同じ、素材の生豆の質が7割をしめます。いかに良い生豆を入手するか、珈琲屋たるものは情熱をそそがなければいけません。そこから先の、焙煎(2割)、配合と抽出(1割)など、直にモノを観ることを実践し試行錯誤をくりかえして、ヒラメキを待つしか手がありません。そうすれば珈琲が自らココロを開いてくれるものです。例えば日本には古典的調理法、ご飯の炊き方があります。前の晩に米を洗い、明くる朝「はじめチョロチョロなかパッパ、ジュウジュウふいたら火を引いて赤児泣いてもふたとるな、そこに婆さま飛んできて藁シベひとシベくべまして、それで蒸らして出来上がり」後世に残したい詩です。今も焙煎に使える調理法です。前の晩に約50℃の湯で洗い、ザルにあげておき、翌朝、空焚きして温度を調整した焙煎機に入れ焙煎します。音楽でいえば「主和音に解決する」といいますが、銘柄別で適正な蒸らしや空気量は違っても、投入温度と窯から取り出す煎り上がり温度は同じにします(自分で温度は見つける)。その過程はご飯の調理法を参考にしてください。最も私は、火力は一定にしダンパー操作で火加減しますが…。次は配合と抽出です。配合これは主音であるコーヒーの苦み(ドの音)がキーワードです。
美味しさを言葉で言えば、「苦いけれど苦くない、酸味があるが酸っぱくない…」バランスよく中庸に仕上がっていれば単品(ストレートコーヒー)でアロマから余韻までの風味を楽しめるものです。それでも配合(ブレンド)にこだわるのは、オクターブの発見者ピタゴラスが音(振動数)の組み合わせで美しい響きがうまれることを提唱したことと似ています。ピタゴラス音律は3:2の比率にある音程(完全五度)C=ドとG=ソを積み重ねること、とよく言われますが、要約すれば自然倍数の特定の組み合わせが和音を作って心地よい感覚を人に与えてくれるということです。どうです、珈琲のブレンドとそっくりだとおもいませんか&音楽は教会での主音?の祈りからグレゴリア聖歌に、ルネッサンスを経、バロックの室内楽へ、やがてロマン派と呼ばれる人のための一大協奏曲へと進化してきたことは皆さんご存知のことです。
私はあのコーヒーカンタータを書いた、音楽の父J.S.バッハに多いに学びました。音楽はその中に対位法や不協和音をとりいれ発達してきました。珈琲を志したころ、私にとってブレンドとは2~3種類のコーヒーでバランスのよい珈琲をつくることで佳かったのですが…音楽で言えば長3度(ドとミ)と完全五度(ドとソの和音)もしくは長三和音(ドミソのメジャーコード)などで心地よいメロディをつくる和声法。
そして、そのくりかえすメロディの奥には対位法なる立体的な音の構造があることを知ったとき、その深淵さにブレンドの新たな扉が開かれた思いがしました。(※対位法とは2つ以上のメロディが美しさを保った横の流れとすると、縦の切り口でも調和し進行しながらハーモニーをつくる音楽理論)抽出、これはネルドリップが一番です。淹れ方は「始め点滴、蒸らしが要、エキスを出したらへそからのの字、泡蓋落とさず濾せば美美」。
何度もいいますが珈琲は香りが生命です。香りはオイルにとけ込んでいます。そのオイルを逃さないで素直に抽出できるのはネルドリップ以外にありません。
淹れ方の基本は「滴一滴」ですが、こんもりと膨らんだ泡(円弧の弦に見立て)にやさしく湯でその琴線にふれるように注ぐのがコツです。
さて、前置きはこのくらいで本題に移りましょう。エチオピアとはギリシャ語で「日に灼けた人」、アラビア人はエチオピア(アビシニア)の人を「混血」と呼びます。キリスト教(エチオピア正教)が40%を占め、イスラムが40%、アニミズムほかが20%と言われ、83の民族、200以上の言語が混在するそうです。紀元前シバの女王とソロモン王の伝説はご存知でしょう。エチオピアはその二人の間にできた、メネリク1世によって建国されました。エチオピアは近年まで二千数百年の歴史を有する、皇帝が支配する独立国だったのです。
エチオピアに行ってまず驚くのは、その景観です。最高峰ラス・ダジャン4‚620メートルを筆頭に2~3千メートルの山々が連なっています。そこに東部地溝帯がはしっています。そして南の中央タンザニアの台地に消える。また西部地溝帯はウガンダ・アルバート湖に始まりモザンビークを経てインド洋に達する。 私見ですが、コーヒーの名産地はその東アフリカ大地溝帯にそってあるように思います。
地層学的に言えばアラビア半島は今もアフリカ大陸から裂けているのだそうです。そして興味深いことには地溝帯に沿って当然、火山帯があり溶岩台地をつくっています。北部になるほどアルカリ性が弱く、玄武岩等の組成は早く形成されたことを意味するようです。
横道にそれるようですが、私がモカ・コーヒーに関心を抱いたのはモカの持つスパイシーな香りの正体を知りたいためでした。香りののみものとしてのコーヒーに惹かれたからです。
この二十数年、度々エチオピアやイエメンに行ってみて、そこでの生活にはさまざまな香料が用られていることが分かったわけです。今でもコーヒーの歴史国では香辛料を加えて飲用しますが、コーヒーがヒトにもたらす香りの鎮静作用とカフェインのもたらす活性作用との、その相乗効果とも言えます。
コーヒーのバイブルと呼ばれる「オール・アバウト・コーヒー」にはコーヒー発祥地としてイエメン説とエチオピア説をあげ、有名な2つの発見伝説を紹介しています。そのよく知られたエチオピア・コーヒー発見伝説とは「山羊飼いカルディ」は自分の飼っている山羊が潅木(カンボク)の実を噛んだあと、夜になっても眠らず騒ぐので寺院の修道士たちに知らせました。
何か特効のある草木を食べたに違いないと、付近を探すと、食い荒らされたコーヒーがみつかりました。修道士たちはこのコーヒーの実をためし、それが眠気をはらうことに気がつき、それからは夜通しの祈祷の間も眠る事無く勤めることができるようになった」という物語です。エチオピアではその修道院とブルーナイルの水源・タナ湖の半島中心にある15~16世紀に建てられたエチオピア正教教会は関係があるという人もいます。 (※少なくとも17世紀にはポルトガル人アルメイダにより、タナ湖北岸のアザゾで栽培されていたことが確認されている)
いまも半島(タナ湖西岸のゼゲ地区)のいたるところには数千本のコーヒー・ジャングルが残っていますが、これらのコーヒーの木は原種に近いとされコーヒーリサーチセンターの手で品種改良に利用されています。はたしてそこがもう一つの発見伝説の地であるかどうかはさておき、一度は訪ねてほしいコーヒーの原風景です。アビシニアの奥地にはコーヒー発祥の地とされるカファ地方があります。
遺伝的変異が豊富に見出される 1‚000~ 2‚000メートルの一帯で、ここではサビ病がアラビカ種と共生しているのが見られます。因みに、これまでアラビカ・コーヒーの野生種(原種)が植物学者によって報告されたことはありますが植物学的にこれが原種だと証明されたことはないようです。エチオピアでは生の豆から煎って粉にして、煮だして飲むコーヒーセレモニーが有名ですが、コーヒーの葉を利用した飲み物も一般化していて、実際私もハラール地方でクティ(Qutti)をの
みましたが、朝摘みしたコーヒーの葉を陰干し、フライパンの上で焙り、もみほぐしポットで煮だしてのみます。ハーブティ風の味わいがします。植物学的にも、花は葉の変容したもの、受粉して果実になったものですから葉にも同じ効果があるわけです。いわゆるコーヒー飲用文化は薬理効果の葉の利用から始まったことがうかがえます。
エチオピア西南部に自生していたコーヒーノキが昔から東地中海やインドと交流をしていたのに外に伝播しなかったのは、交流を持っていたのが、エチオピア北部のアクスムが中心であったからであり、歴史的にメネリク2世がエチオピアの西南部のカファ王朝を征服しエチオピアを統一したのが19世紀末、イスラムの
飲み物コーヒーを認め、交易品として奨励したたことでようやくエチオピア中にコーヒー文化は急速に広まりました。カファ王朝は他部族とのひんぱんな交流がありましたからコーヒーの有用性は早くからアラブに知られていたと思われますが、イエメンに伝わったのは、東部ハラールに拠点を置きアラブがエチオピア南部にその勢力を拡張した13~14世紀に伝播したように推測されます。その後エチオピア東部ハラール州で本格的にコーヒー栽培が始められたのは16〜17世紀頃といわれ、これはイエメンから近隣のアラブ諸国へ、モカ港が非イスラム国(ヨーロッパのキリスト教国)向けの輸出港に限定され、ヨーロッパでイスラムのワイン、アラビアのワインとしてますます増大するコーヒーの需要に追いつかなくなったとき、その供給をエチオピアに求めたことに
はじまります。その名残でエチオピア産のコーヒーもモカの冠をつける訳です。それもコーヒー栽培地や仲買人にはオロモ人が多く見受けられ、そのオロモの人はイスラムを信仰する人が多い。コーヒーの栽培は最大部族オロモ人の移動の歴史と宗教に深い関わりがあったに違いない、と思います。
いまも西南部カファ州はジンマを中心にコーヒーの一大生産地であることに変わりありません。年間を通して雨量も年間1‚500~2‚500mmがあり、よく大木が育ちます。そこで採れるコーヒーは乾燥や精選に問題があり、一般的に小粒で不揃、
やもすると異臭があり、配合や増量用のコーヒーとして使用されます。近年はプランテーションによる良質の水洗式コーヒーも増えてきてはいますが…エチオピア西部を代表するコーヒー産地はオロミア州のレケムプティでしょう。普通、農園の真中には大木のシェイド・ツリーがありそのまわりを囲むようにコーヒーが100~200本栽培されていました。収穫は遅く、2月末から始まります。豆の形状は中からやや大型で豆の先がとがっている。
良質のものはほどよい酸味とコクがあり、スッキリした後味をもっています。 又、南部シダモの高地(約2‚000m)では豊かな水を利用して水洗式コーヒーをつくっています。
エチオピアでは昔から定評あるブランドであるシダモ、その高級品がイルガチェフェ・コーヒーです。豆は中くらいのサイズでレモンの香りがあり上品な酸味とコク、デリケートな風味がありストレートで賞味します。そして、代表する最高級コーヒーハラールはガラ・ムラタ山脈(標高3‚320m)の東南斜面に産出します。この一帯の山肌は黒く雨が多く緑が深い。さてなぜ最高級品であるかというとゴールデン・ビーンズが混じるからです。
その豆がコーヒーにより深い風味をかもし出す。
その代表的集散地ハラワチャを訪ねるにはかつてのキャラバン・ルートの要塞都市ハラールの手前の町から西に折れ南西に100kmほどいき、3‚000mの峠を越えることになります。そしてそのゴールデン・ビーンズの産地ジェルジェルツー村への道はロバにも厳しい山道でした。トヨタの4WDでやっと登り下りすることができる。
そこには標高1‚800~2‚000m、樹齢100年を超すコーヒーの木が規則的に林立し栽培されていたのです。高さは7~ 8mに達し、ラダーと呼ぶ三脚梯子で完熟したコーヒーの実を採取していました。カットバックをしてない栽培方法であることからおそらく現存する世界でも一番古いコーヒーの栽培地でしょう。
そこで私たちは仲買人によって新しい情報をえました。ゴールデンビーンズの採れる場所がもう一つ、谷のむこうにあるというのです。そこはワユーといいロバでしか行けない険しい場所だというのです。それを聞いてはほっとくわけにはいきません。実際この目で確かめないことには納得がいかないわけです。2010年、綿密な準備のうえ、収穫の始まる11月に合わせ、エチオピア最大のコーヒー輸出業者モプラコのエレアンナ社長に頼み込み、馬(ミュール)を手配してもらい私たちはキャンプも辞さない覚悟で計画をねり、強行しました。それが今回の旅の最大の目的だったのです。
先にも触れましたがイエメン、エチオピアでは大地溝帯に沿ってアルカリ玄武岩の割れ目噴火が度々起こり、広大な溶岩台地を形成しました。
この台地玄武岩の厚みはアビシニア高原下で数百メートル、地溝帯縁辺部では2‚000メートルを超えるといいます。(北部アファールや中南部では多少様相が異なりますが1‚300~1‚800メートル)、栽培されるコーヒーにとって地層的には西南部カファと東部ハラールは同じ条件であるかのように見えます。が、西南部カファエリアの内陸的気候風土と東部ハラールエリアのそれとは雨量や風、土壌など大きく異なるのです。
資料のように西南部カファでは単峰型で年間雨量は2‚500mm前後、年間を通じて強い雨が降るため土質の流出が行われ、土壌は粘土質で酸性度が若干強くなります。東部ハラールでは双峰型で1‚000mm強の年間雨量しかなく雨期と乾期が2回あります。
足りない雨量は灌漑で補足します。アルカリ玄武岩質を保った土壌は中性よりです。ゴールデンビーンズの採れる一帯はいろんな火成岩の露出した場所にあってその岩盤が浸食されミネラルを大地に補給しているように思われました。
不思議なことにゴールデンビーンズをつけている木の葉が黄色に変化していることです。
葉が黄色なのはすべてゴールデンビーンズの実をつけるのです。これまで何度も視察にきたことがあるのですが、正直いって1月には収穫はほとんど終わっていて、倉庫にあった数体のゴールデンビーンズや精選過程でみたものに限られていたので、
たわわに実を付けた、収穫されているゴールデン・ビーンズは初めてだったのです。エチオピアコーヒーを栽培システムで分けるとなると、ガーデン・コーヒー、 フォレスト・コーヒーとセミ・フォレスト・コーヒー、プランテーション・コーヒーの4つのタイプに別れます。
ガーデン・コーヒーは東部ハラルゲ(ハラール)、南部、シダモ、オモでも栽培されているタイプです。1ヘクタールにつき1‚000~1‚800本の割合で低密度に栽培され、有機肥料などを与え、農家はいろいろの他の作物もつくっています。
全体の50%をしめます。特に東部ハラールはコーヒーの栽培地として最適でした。取引でも昔から天日乾燥法、最高級モカ・コーヒーとして高い評価を受けています。高地産のこのゴールデンビーンズが混じるハラール産のコーヒーはヨーロッパで引っ張りだこです。
フォレスト・コーヒーはバレ、ウォレガ、ジンマなどの地域に産出する森林樹の陰に野生化している、いわゆるワイルド・コーヒーから採取したコーヒーで自ずとその特徴はバラエティにとんでいます。このコーヒーが産出量全体にしめる割合は10%。セミ・フォレスト・コーヒーは農家が管理します。適度の日照が受けれるようシェイド・ツリーの枝をはらい、下草をかって収穫につとめます。全体の35%。プランテーション・コーヒーには国営の大規模や民間の小規模コーヒー農園があり。とくに西南部、南部で水洗式設備を持ち、行き届いた管理のもとに品種改良、苗床や日照管理、剪定や施肥料など、栽培学に基づいた栽培がおこなわれています。近年スペシャルティ・コーヒーとして有名な水洗式イルガチェフェやシダモはその代表格です。 高地産ハラール、シダモ、イルガチェフェ、この三つがエチオピアコーヒーの3本柱といえます。
一口に同じエチオピアコーヒー(ティピカ種)といえど栽培システム、気候風土によって、おのずと特徴を持っています。倉庫は・DireDawa(ハラール)・Hawassa(シダモAおよびB)・Dila(イルガチェフェ)・Sodda(シダモC)・Jimma(ジンマ、テッぺ、リム)・Bedele(ジンマB )・Gimbi(レケンプティ)・Bonga(建設中。現在はジンマの倉庫に送られており、森林コーヒーを専門に扱う予定)この育まれバラエティに富んだ香りと味がつくりだす、この多様性こそがエチオピア・コーヒーの最強の武器であり盾となる手段です。
さて、エチオピアで採れるほとんどのコーヒーは現在アディスアベバの ECX(Ethiopia. Commodity Exchange=エチオピア商品取引所)でオークション売買されています。2008年3月まではアディスアベバとディレダワに競売場があり、すべてののコーヒーはそこで格付けが行われ売買が義務づけられていました。
ECXではほかにメイズ、小麦、エンドウ豆を取り扱い、倉庫は現在国内に8カ所があって、商品のグレーディングを行います。ECXのビジョンは、世界的商品市場に参加することで小規模農家を援助しエチオピアの経済を活性化することです。エチオピアに産出するコーヒーや穀物の収穫を保証し、インフラ、銀行や金融サービスなどとリンクさせる機関なのです。
主なプロモーターはエチオピア政府で、それに 農業、貿易業界の会員で構成されています。「設立時、3つの共同組合、12万6千の農民(1‚500万の小自作農園)代表、10の加工処理会社、4の民間農業経営者、1の公共企業42の民間の輸出業者と国内の貿易会社で構成」され、ECXは、支払い、配送やビジネスの行動を監視し、内部紛争処理機構を介して、取引の明確なルールで、市場をデータ化して買い手と売り手が自由に透明性のある取引を行うことが出来るようにした訳です。エチオピア農産物の95%を生産する貧しい小規模農家は、ラジオや携帯電話での正当な取引は無理な相談でしょう。少ない情報で、最も近い集荷場で仲買 人のなすがままになり 価格を交渉したり、自分の市場リスクを軽減することができないのが現状でした。地域のECXで前もってカップテストされ、等級付けされた生豆はアジスアベバのECXに集められ産地別でコーヒーはオークションにかけられます。それでも例外的にもうけられた生活協同組合や特定のコーヒー業者のプライベート農園は別扱いされます。
最近まで、このシステムでは困ったこともありました。オークション制度はケニアやタンザニアでも導入していて活動してますが、エチオピアでは地域ごとでミックスしてしまうので 輸出業者は農園指定ができなかったのです。輸出業者はどこどこ産地のグルメコーヒー、スペシャルティコーヒーを指名買いすることが困難でした。ECXはそもそもスペシャルティコーヒーの販売を考慮していなかったのです。それでも最近になってアメリカスペシャルティコーヒー協会の基準を採用し、品質証明書「Q認証」を発行し、2009年段階で37の団体がライセンスを取得し直接輸出が認められるよう改善されました。そしてこのほかにも新しい動きがあります。世界的な認証コーヒーへの対処です。有機コーヒーの拡大、フェアトレード(公正貿易)運動やレインフォレストアライアンス(熱帯雨林同盟)などの活動支援です。これらの直接取引を可能にしました。このようにECXはよりよいタイムリイな政策を選択模索している段階といえます。
しかしまだまだ問題はあります。一部のコーヒーは日本に輸入が可能になってきているのですが、残留農薬の問題で、未だ検査が通らず日本にハラールは輸入されていません。私の憶測ですが、その一帯にはイスラムも多く、栽培条件が同じチャットが栽培されています。その消毒に農薬が使われているのが原因ではないかと疑われるのです。農家にとっては現金高収入となるチャットのほうが魅力があるわけで、コーヒーの商品価値を高くする以外に解決策はありません。私たちは、コーヒーに携わるものとして、エチオピアが貧しさにうち勝ち消費国との相応の豊かさを享受できるまで支える努力を続ける必要があります。ここでエチオピアの将来への私なりの提言を述べてくくりといたします。それはコーヒーの道、その歴史とロマンを訪ねる観光ルートの開拓です。コーヒーファンに国境はありません、コーヒーのルーツ国には魅力的なスポットが多いのです。イエメンのサナア・旧市街(世界遺産)に残るコーヒー市場、西部山岳地のコーヒー園、
バニーマタルやバニーイスマイル山のコーヒー(ブランド名=イブラヒムモカ)園を訪ね、現在の輸出港ホデイダ、聖地モカ港を巡り、紅海を横断しジブチ港に渡り、ジブチからフランコ鉄道に乗りディレダワへ、世界遺産、詩人ランボーが住んだ「ハラール旧市街」を見学し、ガラムラタ山麓のコーヒー園を視察する。それから首都アジスアベバのECXなどのコーヒー機関を訪問し、オプションでタナ湖のコーヒージャングルと湖上の修道院、カリオモンの残る西南部など、個性豊かないろんな産地を訪れる旅です。
エチオピアとイエメンは海を隔てた一本の「モカコーヒーの道」
と見るべきではないでしょうか?イスラムとエチオピア正教の宗教と文化の違いを克服するのには時間と情熱がかかるだろうけれど、コーヒーに携わる者に実現してほしい、やりがいのある問題です。ここで明記しておきたいのは現存する世界一古いコーヒー農園、ハラールの奥地ジェルジェルツー村一帯を世界遺産に登録し現状のまま後世に保存する!ことです。私たちはジェルジェルツー・ワールドヘリテージの会を設立し活動しています。すでに5千人以上の署名をエチオピア政府にお渡ししました。これからも有志を募り「強く遠い」活動を進めていきたいと思っています。